感動出来なかった、は恥。
先日、私は概ねこのような書き込みをした。
「鬱展開と事前に言われた状態だと遠慮したくなる。」
「感動物語、爆笑コメディ、などの売り文句に尻込みする。」
私は、この感覚に対し、これらの原因が自身の『恥』にある、という見解を持ったのだが、改めて考えるとこれ、なかなか面白い感覚なのでは無いかと思い、少し長く語ってみようと思う。
恥の解体
先ず、この「作品の売り文句」の話に入る前に、自分にとっての「恥」とは何であるのか、を考える必要があると思った。
先に結論から言うと、私にとっての「恥」は「自己評価以下の結果を出すこと」であるという考えに至った。
ここでの「自己評価」とは、自身が自身に課した期待、若しくは、他者が自身に課した期待に応えようとする自己のことである。私は、私自身が私に対して「出来る筈である」と思う、若しくは思いたいもの・事柄が、結果的に出来なかったというときに恥をかく。
もう少し具体的に書いてみる。過去の自分を振り返ってみれば、少なくとも「周囲より劣っている」だけでは、私は恥を感じない。私は幼少期より運動が苦手な方だが、逆上がりが出来まいが、マラソン大会で下から2番目だろうが、10mしか泳げまいが、それを「恥ずかしい」と思ったことが無い。それには勿論、同じラインに居る人物に対して失礼に当たる、という意識も介在していたかもしれないが、それ以前に私はそれが恥ずかしくなかった。
この理由は明確だった。多分、私はどうやっても出来ない、私は出来なくて当然なのだ、という妙な自信があったせいだろう。要するに、これらの事象は私の期待通り、若しくは期待以上の及第点だった。
自信というものは上にばかり存在するものではない。「私には到底出来ない」「私はこの程度で出来ている方」というのも一種「自分への信頼」である。諦めといえば聞こえは悪いが、自己理解であり、危険なものに手を出さない防衛機能だと思えば存外悪くない。プールを25m泳げない奴が、沖に繰り出してはいけない、当然の「自信」である。
では改めて、自分が「恥」をかく瞬間、自身が自身の期待以下の結果をはじき出す瞬間についてのことも考える。当然私も人間だから……というと他者を巻き込んでしまうので申し訳ないが、自身も自己評価を誤る瞬間がある。なんとなくいけるだろうと思っていたテストで60点代を取ったり、堂々と発言している間に噛んだり。自身が「これくらいなら出来るだろう」と高を括っていたときに繰り出される自身の凡ミスは脇腹を刺されたような気持ちになる。得意げに披露した技を失敗する瞬間なんてものは、想像しただけで血の気が引く。己を過大評価した結果恥をかいていると思うと、それこそ恥ずかしさの極み、格好悪いったらありゃしないが、得てしてヒトなぞそういうものでもある(と私は思っている)。
この「自己評価」の中には「他人の期待に応えたい」という、他者から与えられる基準も存在する。これは正確には他者評価だが、その期待に応えたいと本気で願えるということは、頑張れば期待に応えられるのではないかという希望を持てていることになる。それはある意味、自分の能力に期待をしているともいえる。
……当然だが、これらは「期待に応えられなかった際に罰が約束されていないこと」が前提である。期待に応えられなければ拷問されると言われれば誰でも必死になる。この場合には、私の言う「自己評価」には当てはまらない。
恥の回避
もう一つの前提として、私は恥をかくことを嫌っている、という背景がある。とはいえ、私も悲しいかな一介の大人である。恥を忍んで物事を遂行する日は少なく無い。恥をかきながら生きるのも存外悪くないと思いつつ日々生活をしているつもりではあるが、それはそれ、これはこれ。頭で分かっていても内なる反応は止められない。なんなら、恥を感じていること自体が私にとっての恥だ。自業自得の隙間に挟まって苦しんでいる。
これは時折話しているが、私は元々回避性パーソナリティ障害によく似た社交不安を抱えていた。元々、といっても今も数割健在ではあるが、昔ほどではない。ここを詳しく説明する気はないが、少なくとも私の根っこに「自分が恥をかきそうな状況から極端に逃げようとする性質がある」ことだけは理解したうえで読み進めて頂きたい。
感動出来ないことは恥
それではなぜ私にとって、感動出来ないことが「恥」なのか。
これは私が、『感動作品』で感動できなかったことを、「作品からの期待に応えられなかった」と捉えるからに他ならない。
私は、作品が銘打ってくるものを「自身への期待」だと感じているらしい。そこの理由は詳しく分からない。ただ、彼らの言う「感動の大傑作」「絶望の鬱展開」「爆笑必至のドタバタ劇」は、私にとっての強烈なプレッシャー、喉元のナイフ、こめかみの銃口なのである。そんな状態で、いざ作品を消費して、感動できなかったら?絶望を感じなかったら?私は大失敗をしてしまう。即座に喉を掻っ切られて、脳を銃でぶち抜かれて死ぬのだ。これは恐ろしい。
事前にプレッシャーをかけられた緊張で身が入らず、あ~、まずいここ泣くところだ……と3歩引いた目線で見え始めたらもうどうしようもない。勘違いしないで欲しいのだが、私は感動もショックも面白も通用しない人間という訳では無い。なんなら涙なんてものはすぐ出る。生命力なんかが好きすぎて、生き物が生きていることを考えると感動してくる。本来はそのくらい弱い。弁明をさせて欲しい。
ただ、事前にプレッシャーをかけられると辛い。その成功失敗の瞬間がいつ来るのだろうと考えると怖くなる。自分がしてしまうかもしれない失敗のことを思い描きながら、自分の「反応」、もとい「結果」を客観的に評価し始めてしまう。そして、その「結果」が自分の演技ではないかどうか、ということも気にかかる。
この文面で察して頂けるだろうか。私がいかに「作品からの期待」に怯えているのかを……
これに関して、個人的に面白いと感じたのは、自分が「作品に期待している」のではなく「作品に期待されている」と感じている点だ。作品「が」期待外れだった、という言葉はよく聞くが、それとは違う。作品を「期待外れ」の状態に陥れてしまう可能性を、自身が孕んでいるのが怖いのだ。
こんなに長々と書いたが、まあ要するに「作品から期待された反応(結果)を返せないということは、自身が自己評価以下の結果を残したということになって恥ずかしい」ということである。俺なら感動ストーリーで感動できるだろ?!と思っていたら出来なかった……これはあまりに恥ずかしい。文章にするとより惨めさが際立つ。
実のところ、有名な作品に尻込みするのも同様の理由であったりする。こちらは、こんなに人気なのに気に入らなかったらどうしよう……!というプレッシャーになる。どちらにせよ概ね無用な心配なので、恐らく、日々どこかで損をしている。
「感動」はしたい
結局のところ、私は「プレッシャー」をかけられずに作品を消費したい。だから、打ち出し方が控えめな作品は非常に有難い。自発的な先入観で、自発的な感情を湧きあがらせ、自発的な感想を得ることが出来る空白を、余裕を持ちたい。
とはいえ、自分に合わせて宣伝を控えめにしろ!と言うつもりはない。それは完全にむこうの自由である。ただ私が臆病者で、尻尾を巻いて逃げているだけなのだから、そんな自分勝手を言うつもりは毛頭ない。ただ、ただ、プレッシャーを感じない入り口が嬉しい。そんな喜びの話だ。
それはそれとして、この性分は非常に己を苦しめている。いつかは克服できるやもしれないが、何れにせよ時間はかかる。私はもう暫く苦しみながら、新たに大好きな作品に会うため、勇気を振り絞って暗闇に投身するしかない。
避けてばかりいることは恥。恥を新たな恥で上塗りするのに、あと何日分のペンキが必要だろうか……
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